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『<ほんとうの自分>のつくり方ー自己物語の心理学ー』
榎本 博明 (著)
講談社現代新書(2002/1/18)
読了。内容のまとめと感想を。
【目次】
1章 自分がわからない――物語不在の時代
1 「自分さがし」の時代
2 アイデンティティを支える物語
3 生きる筋書きのない時代
2章 自己物語はアイデンティティをつくる
1 物語としてのアイデンティティ
2 自己物語が変わると、世界も変わる
3 自己物語は独りよがりではない
3章 自己物語は聞き手によって形成される
1 語ることと聞くことの意味
2 カウンセリングは語りの場
4章 アイデンティティは語った言葉に左右される
1 語ることが自己をつくっていく
2 言い訳も自己物語に影響する
5章 自分をかえたいとき――聞き手を変えれば自分も変わる
1 「自分」は変えられるか?
2 「自分」は変えることができる――どのようにすれば?
【内容概観】
◎一章
生き方の指標として、○○はこうあるべきといった価値観が現代では失効している。
家、村、国、宗教など保証された筋書きに帰属する事ができない。
それは自由といえるかもしれないが、生きる枠組みとして機能する文脈の喪失、自己の崩壊を意味する。アイデンティティは拡散し人生に意味を見いだせない。
ナチス、学生運動、カルト宗教といった明快な物語への安易な同一化もこうした物語の欠如が招いた出来事であったかもしれない。
また、経済、物欲、音楽、性欲、インターネットなどへの耽溺による自意識からの逃避をとることもある。
◎二章
ある自己物語を採用し自己定義することによって、心理や行動の指針ができ、それらが限定されていく。(一貫性をもつことでアイデンティティは保証される)
それは他者の行動など物事の解釈にもいえる。同じ図でも鉄アレイとメガネという異なるラベルを提示された人では再生される図が変わるといった実験のように、我々は他者の行動を文脈(色眼鏡)によって判断し解釈している。
多義性をはらんだ現実を自己物語の文脈によって意味付けている。
つまり、採用する物語によって直面している現実や、過去の経験のもつ意味も変わるのである。
しかし定義することは可能性の限定でもある。モラトリアム時代という言い方もあるが、自己定義の先延ばしが広まってきている。それは社会的立場の不確立でもあり、生きる方向性や日々の意味づけの喪失をもたらす。
思考には論理的説得力をもった論証的思考と、迫真性によって納得させる物語的思考とがあるが(認知心理学者のブルーナー曰く)自己物語は物語的思考によって綴られ理解される。
人生の節目には自己物語の再編を要求される。
◎三章
・自分の経験を世界の中に位置づけるには、その経験を他者に承認してもらい共有してもらう必要がある。そのため自己物語が社会性を獲得するには他者との語りが必要である。
・家族が語る昔話は自己物語の原型となる親の視点によるエピソードも経験として取り込まれ記憶される。そうしたエピソードを素材として自己物語は綴られる。ここでは歴史的事実性ではなく、物語的真実性が重視される。
・自己体験を語るような自己開示にはカタルシス効果、自己洞察効果、不安低減効果という三つの効果がある。
・受け入れがたい現実も新たな文脈のもと諸要素を配置し意味付けを変え語っていくことで、現実を包み込む大きな物語をつくっていく。
・語るためには聞き手が必要であるが、自己物語を語るとき我々は聞き手の反応を見ながら語っていく。より良い反応を得られる語りを模索することで他者の視点を取り入れ、新たな自己の発見にも繋がる。それは経験を整理することにもつながり相手を納得させる物語は社会化された安定した物語となる。
逆に語りの場をもたない場合、自己物語は社会性を得られずその物語への自信を失う。そうして相手の反応を気にして語る事を恐れて語り合いの場からこぼれ落ちて、自己物語はさらに不安定なものとなってしまう。
◎四章
語ることによって自分の姿が語りの方向につくられていく。語りは相手に理解されるようにそれぞれの相手によって内容は変わる。
・納得してくれない場合は脚色、誇張しながらさらにつくりかえていく。聞き手のもつ文脈に規定され語っているのである。
・周囲の期待によっても自己は定義される。それに納得できなくなれば反発し、新たな自己物語を相互承認し折り合いをつけていく。しかし、例えば母子の関係において自立のための反発を子がしたときに、母が自己物語の登場人物としての子の変化を認められない場合、子の自立が後れることがある。自立できない子の背景には親の子離れの問題がある。
・自分でも分からない行動などに言い訳をするとき、その言い訳によってその後の行動が決まったりする。自分の性質に疑問を抱いたとき、つじつまのあう経験をもとに説明をしてアイデンティティが意識され、行動が方向づけられる。これは「自己呈示の効果」に通じる。意図をもって見せたい一定の自分を呈示することで、その「ふり」の方向に自己概念が変化する。
語りの場でのやりとりによって自己物語はたえず変更が加えられている。
◎五章
我々は現実を物語的文脈に沿って意味づけ体験している。文脈による支配から脱するには、関係のネットワークを切り換え新たな他者の視点を取り入れることだ。語る相手が変われば自己の呈示の仕方も変わるからだ。旅に出る人もいるだろう。人との出会いによって自分が変わる。
自己物語の共通部分が多い人同士は現実を共有しやすい。自己物語の妥当性を支持しあえるため、双方にとって報酬となる。自己を正当化するため類似した自己物語を生きる人は関わりを強化する。安定した物語をもたない者は親密な関わりをつくりづらい。
異質なタイプに惹かれるのは自己の革新を求める内なる声だ。自己をぶつけ合うことで自己物語は変わっていく。自分が納得できる自己物語をもち、それにふさわしい聞き手を選ぶことが大切なのである。
【感想】
アイデンティティや自意識を自己物語という切り口でとらえた本だった。一章では、いわゆる大きな物語の終焉を確認して、次の章から自分の物語を見つけていく。語り合い他者との共有をすることで自分の社会性と正当性を強化していく、その場を得られないと自信を失い恐れとなり不安定になるというのは共感できる部分だった。また、それ以前の教育段階でそのような場やそこへ参加することの価値を作れていないと感じる。
それを自分の経験から探ってみる。以前、小学校でワークショップをしたことがあった。ある問題に対して美術的アプローチ(図工の時間を使って展開したワークショップだったため)によって肯定的に捉える視点を養うことを求められた。期間は一ヶ月ほど。我々は初期のコンセプトを決める段階で「子供達の発想を大事にしたい、こっちから押し付ける事をしたくない」という根っこのビジョンを自然に共有していた。これは逆説的に「自分たちのときはそうではなかった」という背景が読み取れる。そのようにして成果物を定めずに授業を展開して子供達の発想を実現する方向を目指した。これは作業の時間の計算が出来ない分大変であったが終了までに間に合って、ワークショップの成果発表会でも一定の評価を得る事ができた。しかし、一概に成功したとは言えない部分もある。
このプロジェクトのきっかけを「ある問題」としたが、それは簡単にいえば市の計画によって起こる変化というものであった。その問題を考える術として美術を選択した。ワークショップの舞台となる小学校は市の元で運営されている。ここに一つ困難があった。「ある問題」を解釈するときにその原因ともいえる市の計画に対して反感を抱かないようにしてくれという要望があったのだ。我々は小学校で授業の時間をもらっている以上しょうがないことだ、と授業の準備の忙しさのために深く考えず従って内容を修正した。それが当たり前だと思っていた。だが今振り返って考えてみると、ここはコンセプトである「子供達の発想を大事にしたい、こっちから押し付ける事をしたくない」という面から言えばとても大事な部分であった。「ある問題」に対してどう感じるか。その感性の部分、大事なインプットの部分を制限して均一な価値観のもとにまとめあげる。その後で自由に制作しようといっても子供は混乱するばかりだ。感受性(インプット)を固定して、表現(アウトプット)を自由に、というのはただ共通の感受性を確認し監視しあうだけのおままごとだ。自由な感受性をもとに、それを分かち合う方法を模索することこそが自由な表現といえるのではないか。もしかすると知らずのうちに均一な価値観の押しつけをしてしまったのではないか、教育の現場をほんの少しではあるが体験した私の一つの反省がそれだった。
ここで自己物語の話へ戻ってみる。自己物語の社会性を得るために語りの場が必要という。また、語ることによって聞き手に合わせ物語は修正され社会性は補強されていくと。しかしその語る場がある一つの価値観に縛られていて物語の多様性を許容できない場合、その価値観にギャップを感じてしまう人間にとってはその価値観に合わせることは偽りであり本当の社会性正当性を獲得するに至らない。自己は不安定なままだ。現在の状況はあまりに一つの価値基準、評価軸に縛られすぎているように見える。ゆとり教育になって平等から個性へとその方向性を変えようと試みたはずが個性を求めながら均一の感性を強要するという矛盾を生み出してしまったのではないだろうか。このまま個性というものを求め続けるならば価値観の多様性を受け入れ、インプットの自由、そしてそれを分かち合うためのアウトプットの重要さを確認していくべきだと思う。そして今ある価値観に合わない人が、五章にあるように環境のネットワークの切り換え、価値観の選択が可能であることが大切なのではないだろうか。
自己像とは本来すごく曖昧なものだと思う。それを物語という形でひもづけて読み解き安くすること。それを分かち合うこと(必ずしも分かり合う必要は無い)。自分で納得しながらそれに喜びを見る事ができることが大事なのかもしれないと感じた。
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